社青同の歴史(1960~1988)

第1節 結成と安保・三池闘争

(1)日本社会主義青年同盟は、1960年10月15日の第1回全国大会で結成された。
 結成の中心となったメンバーの多くは、社会党員(青年部)としての活動歴をもっていた。それをとおして社青同は、理論的にも実践的にも、日本社会党とくに左派(左派社会党)の諸経験を受けついでいる。このなかに1923年第1次日本共産党結成当時からの山川均を頂点とする労農派マルクス主義(今の社会主義協会)の思想的伝統も含まれた。
 社青同結成の準備活動は、1959年から社会党青年部を中心に行なわれた。準備期間はちょうど60年安保闘争と「三池闘争」との巨大な高揚の時期である。このたたかいのなかで立ちあがった青年活動家が、2つのたたかいの経験をたずさえて、誕生した新しい青年同盟に多数合流したのは当然だった。こうして社青同の初期の性格が決まった。この意味では社青同は「安保と三池から生れた」といわれる。

(2)「60年安保闘争」は、1952年に結ばれた日米安全保障条約を現在の形に改訂して結びなおそうとする、岸信介自民党内閣・日本独占の策動にたいするたたかいだった。この策動は戦後の日本独占資本が行なった、最初の主体的な対外政策だったといってよい。日米の軍事同盟関係と将来のアジア進出へ向けての協力関係とを確立しておくのがその意図であった。このような対外政策を主体的に展開しはじめた事実は、日本独占資本が戦後15年の間に、アメリカ帝国主義の援助のもとで完全に復活したことを意味している。
 敗戦による独占資本の後退によって、戦後の日本では、アメリカヘの従属による抑圧をうけながらも、反戦平和と、民主主義的政治への意識が比較的自由に発展することができた。戦前の軍国主義とフアッショ体制が敗退した事実が平和・民主主義の意味を大衆的なものとして確立した。60年安保条約はこの「戦後の社会」が変化することを意味したわけだから、それまで発展してきた反戦平和・民主主義・民族独立の大衆的にゆきわたった意識と激突し、大闘争が爆発した。
 しかし60年安保条約の根源が、60年代から内外に全面的な帝国主義策動を開始しようとする日本独占にあること、独占資本のもとでは真の民主主義や恒久的な平和はあり得ないのだと訴える階級闘争の立場はまだまだ弱かった。

(3)「三池闘争」は三井三池炭鉱にかけられた典型的な合理化を背景にし1200名の中心活動家指名解雇により三池労組を破壊しようとする攻撃に直接的には端を発した。だが、それはたんに一組合の一個別闘争ではなかった。復活した日本独占は、より安く商品を作り、敗戦で立ち遅れた生産技術水準をとりもどし、また独占禁止法等によって解体分散していた資本を再編集中し、欧米の独占資本主義国に追いつこうとしていた。これらはいずれも労働者への合理化、強労働と人べらしをもたらした。またそのための労働組合の破壊、労資協調の思想攻撃を含んでいた。
 三池への攻撃は、このような60年代の体制的合理化攻撃の第一波であり、資本の突破口だった。当時炭鉱労働者は質量共に総評の主柱であり、三池労組がその中心組合だったからである。安保闘争と同じく、三池闘争も根底から変化する日本の社会と国家を象徴する大闘争となった。
 三池労組はこの時すでに10年以上、学習と職場闘争を非常に広い組合員の積極的な参加で積み重ねていた。三池労組の基本的な運動方向は、総評の「組織綱領草案」などの形で、広く、労働者の中に影響をひろげようとしていた。

(4)三池闘争、また広く反合理化闘争には、60年安保闘争よりはるかに強く、階級闘争としての自覚が育っていた。労働者と資本の妥協のできない対立、攻撃の根源は独占資本主義だという事実が自覚されていた。資本や国家は、この階級対立を隠そうと、大規模な思想攻撃を繰り返えす。労働者の生活の仕方や環境自体が資本主義的なものだから、この物質的基盤がすでに、不断に労働者を引きこみ、階級対立を陰弊する。
 しかし三池労組は、階級対立と階級闘争の立場を、労働組合として大衆的に確信し、提起しはじめていた。60年三池闘争でも、その後10数年のたたかい(CO闘争など)でも、三池労組の先輩たちはますます確信を深め、その故に不屈にたたかっている。60年の10ヶ月の激闘の後、三池闘争は「敗北」したが、この提起は重大な意味をもって残った。独占資本は三池労組が全総評に対してもちつつあった指導性・影響力を完全に消しさることはできなかった。

(5)60年安保闘争と三池闘争のなかから社青同に加盟した青年のなかで、質量共に中心をなしたのは総評系労働組合の活動家だった。社青同は労働組合青年部と切っても切れない関係をもつことになる。民青、新左翼などの様々な青年同盟、またさらに世界民青連に加わっているヨーロッパの青年同盟とくらべても、社青同の大きな特徴である。労働組合青年全体を組織するために、青年部全体の決定を得て、青年部自身の取り組みにより活動する。社青同同盟員や一部のシンパだけでする活動は、学習(思想闘争)をのぞけば、原則としてない。この性格は今日も定着した正しいことである。
 しかし社青同に加盟してきた仲間のなかには三池闘争とその提起した内容にはかかわりがなく、安保闘争だけをつうじて立ち上がってきた者もいた。平和・民主主義・民族独立の一般的なムード、つまり反日本独占への方向を本当にはつかめないままの意識も含まれる。
 そのなかでとくに第4インタートロツキストの意識的な「加入戦術」にもとづいて加盟した者、および社青同に加盟してから翌年には結成された解放派(今の革労協)の「社民解体戦術」にもとづいて活動しはじめた者がいたことは後に重体な問題となった。

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第2節 60年代前半

(6)1960年代、とくにその前半、日本独占資本、自民党は、平和・民主主義などの意識を刺激する政治面の対決をさけて社会の生産基盤(いわゆる経済面)の攻撃に集中してきた。
 ここでは、体制的合理化が全産業で全面的にはじまり、反対闘争-とくに三池的な職場(抵抗)闘争をねらいうちで抑圧する支配体制・思想攻撃・組織破壊・労務管理が、急速に激化していった。首相は岸信介から「経済の」池田に代り、「国つくり・人つくり」が基本政策となった。合理化に支えられた造船・電機・合成化学・鉄鋼・自動車などの独占資本は、急テンポで資本を蓄積し合併集中をくりかえして、世界的な大企業にのし上がる。
 労働者にとって、それは、搾取が徹底的に強まることである。しかし政治面をさけて経済面だけを、弾圧は少なくして思想攻撃や教育を、直接の賃金抑圧だけでなくインフレによる間接的な搾取をといった日本独占のやり方は、かなり巧妙で成功した。

(7)労働者側にはこの新情勢をとらえ迎えうつ思想性が弱く、60年安保闘争高揚への幻想-平和・民主主義・民族意識を無原則的に評価して反独占の階級意識の弱さに気づかぬ幻想が渦まいていた。
 社会党内では60年闘争の総括として「政権構想の重要さ」だけが議論され、選挙・国会闘争だけに一喜一憂し、いわゆる「江田ビジョン」(構造改革論)がだされた。
 共産党は党・組織建設を重視はしたが、「愛国・正義」が当時の中心スローガンであったように、実は同じ幻想に在っていた。エネルギーはもうある、それをまとめる政策を、的衛党への組織化を、ということで階級闘争の自覚を高める方法は考えようともしなかった。共産党の組織建設は、この根本がぬけたままでそれでも60年代の資本主義が相対的に安定していた条件のなかでしゃにむにすすめられた。民主青年同盟も「歌ってレーニン踊ってマルクス」などといわれたようなレクリェーション活動を重視し、そのかぎりでは飛躍的に組織を拡大した。

(8)労働者側に必要だったのは、平和・民主主義の民族独立の意識を重視しながらも、労働者階級としての自覚をもっと重視することである。それは、体制的合理化に正面から対決するたたかい、資本主義合理化絶対反対の闘いを基礎としてはじめて可能である。そこから、ますます多くの仲間が、真剣に学習の必要性にきづき真剣にまなびはじめなければ、独占資本の巧妙なやり方をみぬくことはできない。
 資本主義的合理化との闘争の重要性、マルクス経済学の学習の必要性を本当に理解している指導者は少なかった。この問題を提起し、生産点の、合理化の真相を鋭く暴露しつづけた三池労組の人々は、しかし60年以後10年間、激しく論争しなければ一歩もこの思想をひろげられなかった。
 三池のような考え方にたいして江田ビジョンは「教条主義」、共産党は「経済主義」という「批判」をあびせた。そして独占資本は三池労組の「敗北」を大々的に宣伝した。

(9)これらの情勢と思想潮流は、結成直後の社青同指導部にも反映した。江田ビジョンの影響を受けて、平和・民主主義・民族独立の意識、自然発生的なムードに、自分たちの指導を無原則に、追従的にあわせる運動がめざされた。社青同も運動をこの次元に低めれば簡単に組織拡大できるはずだと考えられていた。こうして原水禁運動(「核武装阻止」)が重視され、それも核実験や原子力潜水艦寄港などアメリカ帝国主義との対決が中心であった。逆に反合理化闘争についてはそもそも「反合理化」のスローガンさえ激しい議論で決定できない状況だった。
 この頃から、社青同の内部には、いわゆる「路線論争」が大きな比重を占めるようになった。つまり「いかにたたかうか」の「方法」だけを問題にして関心がそこに集中した。
 しかしそのかぎり、当時の中央執行委員会の指導にたいしてしだいに批判がたかまり、社青同内部で左派が結集しはじめた。それは三池労組の提起にまなぼうとするものであり、総評系労働組合青年活動家である大部分の社青同同盟員に共通の方向となっていった。

(10)左派の考えは、反合理化闘争を重視し反独占の鋭い階級意識の形成を重視し、それを基礎として政治闘争を方向性においても闘争形態においても台頭する日本独占資本主義に対決しうるものに高めようとする方向である。左派は原水禁運動でいえば日本独占の核武装阻止を強調し、政治闘争全体の中心を当時池田内閣がすすめていた憲法改正公聴会の阻止におくことを主張した。公聴会阻止闘争は1962年、各地で左派によって担われ盛上がった。
 そして1964年2月、社青同は第4回全国大会をひらき、執行部原案を修正して「改憲阻止・反合理化」というスローガンを今後のたたかいの中心に決定した。これが社青同のなかで『基調』(または基調の確立)と呼ばれているものである。

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第3節 第4回大会と『基調』

(11)『基調』の確立によって全同盟の意志統一-思想によって団結する青年政治同盟への成長がはじまった。それまでの社青同は総評系労働組合のたたかいで立ち上った青年活動家の、漠然たる集合体にすぎなかった。『基調』はだいたいにおいて正しくこれらのたたかいの内容を整理して理論化し、目的・方法が厳密に一致した団結をめざして努力がはじまった。
 同時にこの整理は、60年以前の教訓・提起を受けつぎつつも、むしろ60年以後の日本独占資本主義とその支配体制に対抗する方法を探る立場に立っていた。いいかえれば、60年の高揚に無原則的に溺れた幻想をうち破ろうとするものであった。

(12)『基調』は日本独占資本との対決に、なかでもその支配体制強化の策動に、たたかいの主軸がおかれなければならぬことを明らかにした。独占資本は平和と民主主義を口にし、政治的対決をさけるかに動いている。しかしそれは長くはつづかない。彼らの真のねらいは逆のところにある。
 ブルジョア民主主義の法律・制度をまきかえしてブルジョア独裁体制を強化すること、これは敗戦によって国内支配体制を大きく後退させていた日本独占の致命的弱点を克服することであり、したがって60年代をつうじて現在でも彼ら最大の政治課題である。「現在の日本独占の攻撃は・・・帝国主義的支配体制を確立しようとしている。・・・彼らの攻撃が全面的な合理化、およびその政治的集約としての改憲を基調としてすすめられているのである」(『基調』原文)。
 したがって、『基調』は60年安保、後の日韓条約などの現実に始まってゆく帝国主義対外策動へのたたかいをもその他すべてのたたかいも、支配体制との対決に主軸をおいて展開し結集しようとする考え方であった。またもう一つ、日本での反独占(青年)統一戦線をも右の考え方で提起するものだった。改憲阻止戦線という言葉が原文に含まれ、「改憲阻止青学共闘」「行動委員会」の2つの組織形態も具体的に提起された。

(13)『基調』は社会の生産基盤(いわゆる経済面)での攻撃の重大な、破壊的な意味を明らかにし、これに対決する反合理化闘争、思想闘争の重要性を明らかにした。またこの2つの闘争こそが勝利に導く力を生みだすこと、いいかえれば、革命を担う階級的政治的意識をつくる基礎づくりである点を明らかにした。「職場の改憲攻撃ともいうべき合理化攻撃に真に抵抗し、改憲阻止が闘えるような思想に武装された労働者の組織力を強めることが肝じんである。」(『基調』原文)。
 また基調は、帝国主義的支配体制と合理化攻撃に抗してどうたたかうか、その「方法」をさらに追求してゆく出発点と考えられた。これを社青同では『基調の豊富化』と呼んだ。第5回大会での「長期抵抗路線」、第6回大会での「大衆闘争路線」、そして第7回大会での機関紙活動強化決定などが、このように位置づけられた。

(14)以上のような『基調』とその豊富化とは、大多数の同盟員の共感のうえに立っていた。しかし部分的だったが激しい批判も生まれ、社青同内部の討論は先鋭化した。
 一つの思想がそれまでの討論をまとめた形で提出されれば、それを支持するかどうかによって討論は整理され、新しい高まった次元の討論がはじまる。これは間違いではないどころか思想がより正確になり意志統一がより厳密になってゆくための、正しい発展の筋道である。しかしたがいにまなびあう姿勢、発展へ向う方向ではない、自己目的的な論争がはじまれば、それは分派闘争である。この場合、『基調』批判に、加入戦術をとる極「左」派が便乗してきた。
 加入戦術とは、(社青同の)思想・運動・組織・構成員の全体を認めず、全体はだめだが部分的によい者がいるという考え方で加盟することである。したがって全体強化や全体の意志統一を追求せず、正反対に、全体から「正しい部分」をいかに分離させ別の方向に向わせるかを追求する。社青同の自由な討論はよくこのような加入戦術に利用された。

(15)群馬・栃木・東京・愛知・大阪・京都・徳島など少なからぬ重要な県で、極「左」の加入戦術がおこなわれ、激しい分派闘争がしかけられた。東京では彼らが地本執行委員会を握り、地本内部でも全国の同盟にたいしても、『基調』がいかにまちがっているかの「討論」や「教宣」をつづけた。第4インターはとくに三多摩地区を中心にかなりの勢力をもったが自己崩壊し、東京では1968年頃までには社会党系の運動からひきあげた。
 解放派は「社会党・社青同などの社民勢力を解体しておかなければ、新しい前衛党建設をはじめても革命的労働者は結集できない」という、奇妙に自信のない発想に立つ。つまり本当の目的である新たな前衛党を公然とうちだすのではなく、社会党・社青同内部で分派闘争を恒常的に自己目的的に展開し、最後に分裂してゆくという。この立場から第4回全国大会以後、『基調』を支援する者=社会主義協会こそ「日本革命の最大の敵」と公言し、『基調』による全同盟の意志統一を、手段をえらばず妨害しようとした。
 その頂点は1966年9月3日の東京地本第7回大会(流会)であった。第4インター・解放派は、この大会の代議員選出基準を規約による慣例から変更し是が非でも執行部独占を意図し、さらに開会直後手に手にゲバ棒をもった数時間にわたる暴行・テロを加えた。百数十人の負傷者のなかには2年間半身不随で療養する同志もあった。これがいわゆる「9・3事件」である。緊急中央委員会の決定で東京地本はいったん解散され、同年12月に再建されたのが今の地本組織である。解放派・第4インターは、再登録にともなう自己批判を拒否し東京では社青同を脱退した。

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第4節 60年代後半

(16)60年代後半、「全国総合開発計画」「経済社会発展計画」などの国家計画が打ち出され、国家権力を駆使して独占資本の抑圧と搾取が強化された。インフレと財政投資にたすけられ、法律や「行政指導」に導かれて、独占資本はますます資本を蓄積した。銀行・造船・鉄鋼などでは「世界のトップ・メーカー」もいくつか生まれた。
 資本の側では、これを「高度成長」とよび、われわれは「体制的合理化」とよんでいる。資本はGNP(国民総生産)が世界第2位になったと誇るが、われわれはこの過程で、社会のほんの一部にますます富が集中され、大多数をしめる勤労大衆には、疲労と貧困が蓄積されたことを知っている。
 日「韓」条約(1965年)、佐藤とジョンソン、あるいはニクソンとの間に取り加わされた「日米共同声明」(68・9年)、そして沖繩「返還」などの対外政策をつうじて、日本独占のアジアヘの帝国主義的進出も本格化し、それを防衛する政治的軍事的体制も強められた。国会での反民主主義的な策動も日常茶飯のものになった。平和と民主主義を口先ではとなえながら、独占資本は、実は平然とそれを踏みにじった。

(17)しかし資本と労働者階級の敵対的対立関係は、独占資本と大多数の大衆の利害が相反するものだという事実は、外見上は、みえにくいものになった。人々は「戦後は終った」といい、新しいものがはじまったのではないかとの幻想さえ持たされた。「所得倍増」、「経済大国」、「福祉国家」--。
 戦後、日本社会党に集中していた勤労大衆の支持は分解しはじめ、民社党が微増ながら議席をのばしたり、また宗教的な装いをもった中間政党である公明党(創価学会)が台頭したりした。また共産党も、このような勤労大衆の意識に巧みに政策や外見を合致させることを努力して、飛躍的に得票をのばした。
 労働運動でも、同盟系が増え、とくに民間製造業では右翼的な改良主義がはびこった。職場抵抗や学習は軽視または放棄され組職づくりは形骸化されたものになった。総評は民間単産だけでなく、公労協でも宝樹文彦氏(全逓)などの右翼的な思想が幅をきかせだし、公務員で共産党の影響力が伸びはじめたといっても、それも右翼的な「政党支持自由化」や「よい合理化もある」「中立・自衛」などのスローガンをいいはじめたことによった勢力拡張にすぎなかった。

(18)このような状態にたちむかおうとする人々も、社会党を中心にもちろんいたが、その多くも、独占資本と勤労大衆との階級的対立という法則にそってではなく、その一部分であることは事実だか、日本独占の海外進出に集中し、これとたたかうことに主力を置いて考えていたといえる。このような傾向は青年のなかでとくに強かった。
 アメリカのベトナム侵略戦争が本格化し、日本独占がこれに積極的に加担しかつ経済的にもこれを利用していくとともに、反戦闘争はそれなりに強化された。各労働組合でも、少しづつ、このたたかいの必要性は理解された。そこで日本労働者階級は、1つの前進をかちとっていた。
 しかし反戦闘争の位置づけには不充分さがあった。外見上は安定期にあり、はなやかな「高度成長」をつづけていた資本主義経済の内実は、ますます階級対立が先鋭化していくことに他ならない。このことを確信をもってみつめ、この法則にそって反戦闘争を位置づけることが弱かった。反戦闘争を自己目的化したり、反合理化闘争はもうたたかえないが反戦闘争ではたたかえると逃げたりする傾向は、多かれ少なかれ運動全体の中に入りこんでいた。

(19)このような状況の中で、公労協青年部を中心に、「反戦青年委員会」が結成され、1965年日「韓」条約反対闘争から活動しはじめた。青年はもちろん、社会党のなかでも、この組織や運動にたいする期待はかなり大きかった。
 「反戦青年委員会」ははじめ、労組青年部の団体共闘を中心に、社会党・社青同が加わり、さらに個人加盟を認め、様々な学生集団のオヴザーヴァー参加をも認める構成だった。そして中央につづいて、各県段階、さらに地区段階にも結成されて大きな役割りを果した。
 しかしこのように下にひろがってゆく途中で、学生から個人参加メンバーというルートで、極「左」主義諸潮流が積極的に加入戦術をとるようになった。そして1968年頃になると、もともと社青同に「加入」していた解放派や第4インターだけでなく、革共同革マル派、中核派などが、社会党・社青同の指導性の弱い地区や単産に入りこみ、「反戦青年委員会」の運動をつうじて勢力を拡大するとともに、「反戦」を引きまわすところも出てきた。
 彼らは独自の「反戦」運動を提起しはじめ、「第3期反戦青年委員会運動」を自称していた。その頂点は、いわゆる「職場反戦青年委」で労働組合を真向から否定した。「自主・創意・統一」というスローガンを悪用して、やりたい者だけをあつめ、生産管理だの山猫ストを叫ぶようになった。
 このような状態が部分的にせよ生まれたのは、根本的には、労働運動全体の右翼化のいわば「罰」である。少なからぬ青年労働者は学習も足らずまた指導もなく、階級闘争にむけて本当の前進をかちとることができなかったが、それでも職場の矛盾を感覚的につかみ、たたかおうとしてその場所を探しはじめていたのである。

(20)社青同のなかで、これらのことが反映し大きな論争がはじまった。1967年第7回大会が終わったあと、その秋ごろからこの論争がはじまった。翌年の第8回大会では、事実上3つの流れが生まれ、1969年9月の第9回大会では、いわゆる「3つの見解」がてい立してまとまらず、次の1年間、この3つの見解書を中心に、徹底的に討論し、再び団結する道を探そうということになった。
 この1年間は社青同の歴史のなかで、最も困難な時期だった。一部の人々(太田派と解放派)は、この第9回大会の決定を拒否し、事実上の分裂活動をはじめていた。だから、社青同そのものへの失望も内外に生まれた。しかし同時に、少なからぬ同盟員が、この混乱を、結局は自分たちの弱さが原因だと真向から受けとめ、そこをとおって自分を高めよう、社青同の成果をうけつぎ発展させようと、本当に一人ひとり立ち上った。

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第5節 論争と第10回大会

(21)「3つの見解」はそれぞれ、第1見解、第2見解、第3見解と略称された。社青同の今日を築いてきたのは第一見解であり、これを支持した同志たちだが、説明の順序は逆にのべる。
 論争は、「第3期反戦青年委運動」の評価をめぐっておこったようにみえるが、本当は、もっと根本的なものから生まれている。そして実際、かなり広い範囲をあつかう論争に発展した。それはいわゆる「社会党・総評ブロック」の評価であった。社青同は組織的にも運動上も、また同盟員の育ちかたからいっても、社会党の影響下にあったし、総評労働運動を基礎としていた。
 すでにのべてきたように、60年代後半はこの社会党・総評系の運動全体が、自己のよって立つ原則を見失ないかかっていた時期であった。もちろんきちんと階級対立、階級闘争の立場に立って、独占資本のつくり出す幻想にダマされない指導者も少なくなかったが、社会党の中で「階級闘争」を主張する幹部さえこの本来の方向は不徹底だった。
 このなかで、極「左」派は、「第3期反戦青年委運動」をテコに青年をかきあつめ、もう社会党も総評もダメだ、別の党や別の運動をつくらなければならないと主張し、積極的な攻撃を開始したわけである。
 社青同内部にはいなかったが、社会党などの一部幹部からは、社会・公明・民社3党の合同による新しい改良主義政党結成構想や、総評・同盟を「統一」(?)した労働運動の「再編統一論」が出されていた。右派と極「左」派は、社会党と総評を解体させようという点では同じ目標を追っていたことになる。
 そして、この全体の動き、論争の中で、社責同内部の論争も進んだのだった。社青同を守り発展させてゆくための闘争は、また同時に、社会党と総評を守り、発展させてゆくための闘争だった。

(22)第3見解は、それまでの社青同の委員長をはじめ中央執行委員会の多数派を中心に出された意見であり、太田薫氏と思想上のつながりを持っていたので太田派ともよばれた。
 この見解は激しく極「左」派に反発したがさりとて社会党や総評の基本的方向に確信をもっていなかったので、今後どうすべきかを提起することはほとんどできなかった。第4回大会の『基調』を守ること、とくにそこにいわれている改憲阻止青年会議(個人加盟)の組織化を強調したが、すでにのべてきた論争の本質についてはたいへんアイマイで中間的だった。
 社会党ナンセンスといわれれば、そうだといい、しかも社会党を見捨てて新党をつくるというわけでもないから(一部はこのコースをとって人民の力派をつくった)、党内闘争を積極化すると主張した。総評についても、「新たな潮流」を形成すべきだ、ただし総評から飛び出すとはかぎらないという主張だった。
 もっとも重要な反合理化闘争については「いかなることがあってもたたかう」と強調したが、たいへんモノトリ主義的な意味であった。それと裏表の関係をなす誤りとして、学習はたいへん弱く、「もうわれわれは分かっているのであって学習が足らないのは社会党員だ」という姿勢だった。

(23)第2見解は極「左」派そのものである。もともと極「左」諸潮流からの加入分子である解放派、第4インターを中心に、第4回大会以前に中央本部に多かった右派の後身が迎合し(構改左派・主体と変革派)、また福岡地本執行部を中心にした部分が、動揺をくりかえした後、ここに加わった。彼らは多くの場合合同して行動したが、内部でも論争しつづけていた。
 すでにのべたような社会党外部の極「左」諸派と同じことを主張したわけだが、社青同ではとくに第4回大会の「基調」を攻撃した。はじめは「基調を守る」といっていた第3見解に突っかかっていたが、やがて思想内容からいっても組織的な力からいっても第1見解が敵だと気づくと、ここに激しい攻撃を集中しながら第3見解を引きつけていこうとした。
 中心は、すでに60年代前半から、このような「社青同・社会党の解体」を追求していた解放派であった。解放派は、すでに1966年に脱退していた東京の残党も一緒になり、暴力攻撃を含むあらゆる手段をとった。

(24)第1見解は、第9回大会までの中央執行委員会の少数派を中心に提出され、兵庫・東京・福島などの地本、そして労働大学の学習誌『まなぶ』の読者から支持された。
 この見解は、社会党も総評も、今は弱くてもかならず強化されると考えていた。資本主義社会の法則的な力がそうすること、社会党や総評が、この湧き起る力を受けとめ得る基本方向を持っていることを、感覚的にだが確信していた。まして、労働組合から一時的にせよ撤退して、先進部分の個人加盟組織をつくる主張には耳をかさなかった。
 だから反戦闘争ては、「第3期反戦」「職場反戦」はもちろん、改憲阻止青年会議にも批判的だった。むしろ班が政治宣伝を積み重ね青年部全体をかためてゆく地道な方向を主張した。
 青年部の団体共闘としての結成当時の反戦青年委員会をつづければよいと主張した。
 反合理化闘争でも、組合全体の右傾化に苦しみ迷いながら、組合員大衆も苦しみ、怒りや要求を持っていること、それを引きだせないのは、社会党・総評幹部が悪いというより自分自身の弱さだということを主張した。大衆闘争路線を実行する自分の能力を高めようということである。

(25)第9回大会以後、第1見解の人々が社青同中央本部を担って、ともかく組織を継続させる責任を買って出た。職場での各々の実践を含む論争をつづけて、1年後に組織としての結論を出そうということである。だから執行部の責任を負うといっても、多数決で決定をおしつけるようなことはしなかった。
 第2見解は解放派をのぞき、この執行部に代表を送ったが、所詮は社青同解体を本質としていたから、1年たたぬうちに辞任し、第1見解の人々にも総辞職を要求した。それによって社青同解体が完成すると考えたからである。しかし他方彼らの大衆運動は、極「左」派といっても革共同革マル派、中核派などにくらべれば基本方向の意志統一もできていない連中だったので、しだいに自己崩壊していった。今日も残っているのは、革労協と名をかえた解放派の一部だけである。
 第3見解は、執行部に代表を送らず、大会後すぐ事実上の分裂活動をはじめ、繰り返えされた復帰の呼びかけを拒否しつづけた。はじめは、みかけの上で旧主流派として支持者も多かったが、実は最も、意志統一のない中間派であり、社会党・総評についてだけでなく社青同のこの混乱に関しても、すべて人のせいにして逃げまわったので、急速に影響力を失なってしまった。現在も限られた県で「社青同」を名乗っているが、今では反合理化より文化活動を優先したり、総評の社会党支持決定撤回を主張したり、確固たる主張は何も持っていなかったことを露呈している。
 1年半後の1971年2月、第10回大会が招集されたとき、第2見解はこれを暴力的に破壊することを宣言、第3見解は開催に反対と、2つとも要するに論争からは逃亡してしまった。そして実際、この時点ですでに、いうにたりる勢力ではなくなっていた。論争の結論はすでに職場でついていた。

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第6節 70年代の前進へ

(26)70年代とともに、独占資本の虚構は、崩れはじめ、その真の姿が公然とあらわれはじめた。繁栄とみえたものは資本主義の矛盾の蓄積にすぎなかった。日本独占がつくりあげた巨大な生産施設は生産力の過剰であり、好調にのびつづける日本の輸出は帝国主義列強との対立の激化だった。
 アメリカ独占がドル防衛のためのニクソン声明を打ち出したことを契機に、世界的に資本主義の安定した外見はくずれ、日本資本主義は激しく動揺しはじめた。

(27)資本主義経済の動揺は、また社会的政治的な動揺の開始でもあった。労働者階級のなかに実はひろがっていたこの社会への批判は、いろいろな問題を契機として広範に、闘争として結晶しはじめたし、さらに勤労大衆全体のなかにも同じことがあらわれた。
 労働運動では、全逓の1969年年末の闘争がその典型であり、1年後には宝樹文彦委員長の退陣を結果して、あきらかに労働運動路線の内容を問題にしはじめた。それは国労につながり、1970~71年、生産性向上運動(マル生)にたいして、10年ぶりに単産としての大闘争が取り組まれた。総評解体の「労働運動の再編統一」論は、1972年末にはほぼ粉砕された。72、73春闘は、同盟系労組も含めて非常に広範に、また戦闘的に展開され、公務員の中にも、さらに民間でさえ急速な変化が生まれている。
 農業切捨て(構造改革)政策の諸結果にたいして農民も革新化しはじめ、もはや自民党の票田とはいえない。労働組合には関心のうすい人々も居住地では、公害・交通事故・保育所問題などで活発に運動に加わる部分が生まれてきた。革新自治体は急増している。反戦闘争も、反基地・反自衛隊の内容がもっと生活に密着して具体的にとらえられるようになり、したがって今までよりもっと広い人々が加わりはじめた。

(28)日本社会党の中では、この現実をしっかりととらえることのできる、つまりマルクス・レーニン主義の視点で、経済・社会・政治の変化を評価できる人々の発言力が急速にたかまった。これら全般的な変化を確信をもってとらえ、この流れがどのように進まざるを得ないかを、社会党はほぼ正確に語ることができるようになった。青年はもちろん、真剣に情勢に対応しようとする人々の中で、社会党は再評価されはじめた。それはまた、科学的社会主義の思想・理論の再評価であり、学習への意欲でもあった。
 「社・公・民」路線をとる部分と極「左」派は、1970年年末の第34回社会党大会に、党解体の策動を各々の立場から集中した。しかしこの大会は逆に、社会党がすすむべき正しい道を、あらためて確立した大会になった。社青同員もこの大会を極「左」の暴力から防衛するために協力し、社会党には立派な革命家が少なくないことをそこであらためて知った。
 1972年の暮の総選挙では、社会党は再確立された党の基本路線にそってたたかって立派な成果をあげた。そして社会党の周辺に、最も活動的であり、かつ学習しようという意欲にみちた青年労働者が結集しはじめていることも証明された。

(29)第10回大会の後、社青同はかなり早いテンポで、質量共に前進している。この大会の時は、第2見解派の脱落によって同盟員数は、へっていたし、第3見解派も正式に脱退していった。しかし第10同大会に参加して社青同の組織と運動を守った仲間は、その後1年半、第11回大会までに2倍近く増えた。この大会で再登録がおこなわれて全同盟員が一人ひとり、あらためて社青同員として積極的に活動してゆく決意を固め、次の1年でさらに5割をこえる仲間が加わった。73年暮の第12回全国大会で、社青同は結成いらい事実上最大の組織を持つようになった。
 このことは第1に、思想、基本方向を獲得しそれによって団結した時、そこに生れる力がいかに大きいかの証明である。第2にその思想の内容については、漠然としていたとしても、第1見解が次のような姿勢を定着化させていたことの重要さである。つまり困難に直面してもたじろがず動揺せず、大筋の基本方向を堅持して踏みとどまる姿勢。それから他人のせいにせず、自分自身がまなび、自分を鍛えることによって展望を切りひらこうとする姿勢である。
 第1見解を支持した青年同盟員の主張はまだきわめて不充分だった。しかし基本的なあやまりはなかった。またこの見解は、あたりまえのことを不屈に、地道に粘り強くやっていく姿勢、そして謙虚な姿勢を保証した。この故に、第10回大会前後から社青同は情勢の発展に適応し、必然的に湧き起る労働者階級の力をいっぱいに汲みとって、急速に前進してきた。

(30)第10回大会前後、社青同の同盟員は、第1見解を出発点にさらに多くのことをまなびとって組織の共通の認識にしてきた。その中心は「階級および階級闘争」だといえる。
 資本主義社会は階級対立の社会であり、資本家階級と労働者階級は敵対的に対立している。資本主義は日々、労働者階級を搾取し抑圧し、その生活と、生命さえ奪っている。そしてそのことによって、この階級の自覚、団結、革命闘争を、日々強めている。われわれはこの法則に沿って活動しなければならない。平和や民主主義を守る闘いも、この基本方向にたった働きかけでなければならない。そして最も重要なのは、資本主義的合理化にたいするたたかいとマルクス経済学・唯物史観を中心にした学習である。この2つを中心に、自分自身もまた広い仲間たちにも、社会を動かし歴史を変える法則をまなびとることができる。
 自分たちが日々おかれている状態は、職場で生活の全域で、かつて分っているつもりだった頃よりずっと厳しく認識されはじめた。資本はこのオレの生命まですりへらしている人殺しである。他人のせいにするわけにはいかないのはもちろん、解決の道は、それがどんな種類のものであっても、もともと簡単ではなかったのだ。合理化とたたかうといってもこうすれば攻撃をハネ返えせるといううまい「方法」がどこかにあるわけではなかった。
 第4回大会『基調』も、このような搾取と抑圧に抵抗しぬくことの呼びかけであり、この抵抗が積み重ねられ広がってゆくとき、どのようにそれが発展するかの筋道を示したものであった。個々の抵抗のなかで、労働者は時々勝利することができる。しかし真の勝利は、階級のない私有制のない社会を創る他なく、それが自分たちにはできるのだという確信、その団結、そして社会主義社会のための革命闘争こそ真の勝利なのである。
 社青同第12回大会で決定された新しい綱領は、このような新しくまなびとられたものの成文化である。

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第7節 生命と権利の闘いの提起

(31)独占資本は、佐藤長期政権に変わって72年に田中内閣を登場させた。「日本列島改造論」と「日中国交回復」を手に、はなばなしく登場した田中内閣であったが、公共投資の大安売りを伴った日本列島改造論(赤字公債の大量発行)、「石油危機」を利用した独占資本の物価吊り上げによって、日本経済は世界資本主義に輪をかけて激しいインフレにみまわれた。さらに、「新全総」「新経済社会発展計画」にもとづく激しい体制的合理化を推しすすめスクラップ・アンド・ビルドは全産業において強行された。
 これと一体に、独占資本の支配を強化するために「金権政治」だけでなく、小選挙区制の導入、刑法改悪、アジア安保体制の強化の推進などの策動をたえず繰り返してきた。
 このような情勢のなかで、日本社会党は「中期路線」につづいて、「国民連合政府綱領」(73年)を提唱した。また、日本共産党や中間政党の公明・民社党も問題は含みながらも反独占の方向をもつ連合政府綱領を打ち出した。こうした動きが、インフレの激化と重なり、全野党的な反インフレ共闘が結成された。総評も反独占闘争の強力な組織化として「国民春闘路線」(74年)を打ち出した。また、総評は長期路線の検討もはじめ、国労、全逓、自治労、全電通などでも戦後組合結成以来、はじめての綱領改正論議や長期方針の検討がはじまったことは注目すべき点であった。
 74春闘は、量的、質的にもかつてない規模のストライキで32.9%の賃上げをかちとった。政府・独占資本は官公労の分断と教育の反勧化を目指した日教組に対する不当弾圧や職場における節約運動などの導入によって、労働者のたたかいに水をさそうとしたが、春闘は大きく高揚したのである。
 74春闘を足場に参議院選挙闘争も力強くたたかわれ、社会党を支持する青年共闘会議も全国で組織され、社会党前進の一翼を担い奮闘した。そして、「保革伯仲」の状態が生み出され、多くの労働者に新しい時代への期待をいだかせたのである。
 この頃、国際的にも反帝国主義闘争が激しく展開された。73年のチリでのアジェンデ政権の成立や75年のベトナム・ラオス・カンボジア解放は、反帝闘争の巨大な勝利の象徴的なできごとであり、社会主義勢力の優越を力強く示した。

(32)社青同は73年12月に第12回全国大会を開催した。
 大会では、綱領・規約の改正とならんで、「生命と権利のたたかい」の提起が行われた。そのしばらく前から、『青年の声』1面で「奪われる生命と権利」の連載が行われていた。それは、資本主義において、労働者を犠牲にしながら利潤追求がつづけられている事実を鋭く告発すると同時に、当時の反合理化闘争の弱さについて、反省を促すものであった。例えば、反合理化闘争について、繰り返し議論しながら、その会議の参加者が、合理化病である腰痛症に苦しんでいる現実をみすごしていた。頸肩腕症候群も、同盟員のなかでさえ、体質や特殊な病気で一般性はないものと、みられていた。そうした反合理化闘争の空まわりを気づかせたのが、この提起であった。
 全電通郡山分会の鈴木千恵子さんの入水自殺という悲しいできごと(73年)は、改めて、合理化が労働者の生命を奪うものであることを、全国の仲間に告発した。自分のところでは反合理化闘争に熱心に取り組んできたから、合理化病はないと思われていた職場でも、仲間たちと討論してみると、予想外の現実を眼の前につきつけられた。胃薬や目薬を常用している者、肩こりに苦しむ者、腰痛で通院中の者など、多くの仲間が合理化の結果として、生命をすり減らしながら働いていた。この現実は、資本への怒りをかきたてた。反マル生闘争勝利の後でもあったので、職場抵抗の火は、多くの職場に急速に広まった。そのたたかいは、たくさんの若い仲間の心をとらえた。
 当時、インフレによる生活破壊も著しく、73、74春闘は激しく燃え上がった。社青同も全力を上げてたたかった。要求討論からストライキの準備、実行まで、労組の行動を担った。反合理化・職場闘争の前進、春闘の高揚は、若い労働者の自覚を高めた。この時期、社青同の拡大は最も急速にすすんだ。
 その春闘を終え、各職場の状況を集約してみると、重要な事実に気づいた。盛上がった職場では、管理者が奇妙に協力的であったことである。それが「正常化路線」の開始であった。労資間の対立を、表面上にはやわらげつつ、職場闘争の火を消そうとしてきたのである。
 74年、全電通千葉県支部の役員選挙に対する、公社の露骨な介入があった。頚腕闘争をはじめ、生命と権利を守る反合理化闘争を労組として実践している千葉県支部の存在を、資本は容認しなかったのである。この攻撃と「正常化路線」は、表裏一体をなしていた。
 74年11月に第13回大会が行われた。ここで、労働者の生命と権利をめぐる攻防こそが階級闘争の焦点であり、資本主義的合理化の現実をしっかりつかんで、反撃を組織しようとの意志統一を行った。たたかいの前進に自信をもちつつ、同時に、「正常化」路線の敵対的性格を厳しくとらえて、決意を新たにしたのであった。
 たたかいのなかで重要な役割を果した機関紙『青年の声』は74年11月4日から総局制に切りかえられ定期・敏速な配布体制が確立された。

(33)70年代前半、青年の共闘運動は飛躍的前進をとげた。社会党青少年局、総評・労組青年部、社青同を基軸とした、いわゆる「3者共闘」による事実上の反独占青年運動の出発であった。
 この前提には、第1に社会党第33回大会(70年)における青年運動方針と青少年局体制の確立や社青同第10回大会での主体的条件の確立、第2に、総評44回大会(70年)での青年部運動強化の方針化、第3に郵政、国鉄職場での反マル生共闘運動や地域段階での反戦、沖縄闘争など課題別共闘の存在などがあった。
 反戦青年委員会運動の破綻後、社会党が提起した「青年選対」力針を受けて73年東京都議選「都議選勝利・社会党を支持する青年共闘会議」が結成された。74年の参院選では、「社会党を支持する青年共闘会議」として全国化がはかられ、それは42県、700地区、40万の青年を結集する運動体へと急速に発展した。
 この運動は、社会党・総評ブロックにおける青年運動の1つの発展方向を示したと同時に、反独占・社会主義をめざす社青同の成長と不可分なものであった。その中身は、従来の青年運動における青年行動隊的扱いや動員主義を排し、青年自らがまなび成長することに主眼をおいた点にあった。そのため、企業・産別・階層を越えた青年の交流と学習を活動の中心にすえて、「地区共闘運動」として定着していった。
 社青同が「3者共闘」運動のなかで重視したことは、個別の共闘課題を大切にしながら、そのたたかいをつうじて、反独占をたたかう青年の階級的団結と社会主義にむけた政治的自覚を促すことであった。社会主義運動と労働運動の融合を追求し、職場反合理化闘争と政治闘争の結合を重視したことである。また、社青同にとっては、社会党との「支持協力関係」のもとでの青年運動の形態と内実を明らかにしたという意味をもっていた。
 70年代前半はまた、平和友好祭運動にとっては、60年以来の混乱を終えて、東京地区実連、東京地評を加えて日本青年学生平和友好祭実行委員会が再確立された。全国青年団結集会実行委員会は67年に自治労青年部・社青同で発足したものが総評青年局・社会党青少年局の参加へと発展するなど前進を示した。
 こうした前進も当然、幾多の困難を経ながらであった。総評では青年運動の育成のなかで青年協の結成が目指されたが、73年の延期を経て、74年に頓挫してしまった。社青同及び反独占青年運動の前進に畏怖した革マル派、「全国協」、民青などの党派的介入によるボイコット、妨害によるものであった。
 平和友好祭運動でも第15回中央祭典(73年)において、革マル派に影響された動労による暴力失明事件(山中湖事件)によって中央祭典が中断され76年に再開されるという事態があった。これは、「反帝連帯」か「反帝・反スタ」かという平和友好祭運動の基調をめぐってのものであったが、運動の広がりのなかで克服されていった。
 73年夏、ベルリンで開催された平和友好祭第13回世界青年学生祭典は、「反帝連帝・平和・友情」のスローガンのもとに行われた。
 また、社青同の国際活動も7O年から開始されていたDDR留学生派遣に加え(79年まで)ソ連への留学生派遣(75年から)や定期交流などが開始された。

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第8節 70年代後半の攻防

(34)70年代前半に高揚した労働運動に対して、74年後半から75年にかけて、独占資本は強力な巻き返しをはかってきた。
 不況の影が次第に色濃くなる情勢を逆手にとって、「不況・赤字」宣伝を繰り広げながら、また、「労使正常化」という欺瞞的なポーズを取りながら、巧みに活動家と組合員の分断をはかり活動家の孤立化がすすめられた。
 74年、田中内閣は倒れて3木内閣が生まれ、「対話と協調」が唱えられた。社青同はこれを「国家的規模の正常化路線」と分析し警鐘を打ちならした。
 75春闘は、はじめての本格的な不況下での春闘であったが、独占資本の15%ガイドラインにおし込められた。独占の攻撃は、74年末にだされた「大巾賃上げの行方研究委員会報告」に基づいたものであり、各資本の結束はかつてなく強固なものであった。当時、職場では資本の労務管理と思想攻撃が小集団運動を挺にますます強められていた。その一環として、76年頃より「地方財政危機」宣伝と、交通費や超勤手当を材料にした「ヤミ・カラ攻撃」が強化されていた。社青同はこの攻撃を重視し、職場の実態をふまえた反論を行った。この論争が、後の行政改革をめぐる攻防の前哨戦であった。
 75年以降の独占資本の巻き返しと労働運動、社会党の後退のなかで、社青同のたたかいもこれまでのような前進はできなくなった。
 75春闘において、社青同はマルクス経済学の学習、生活実態からの大巾賃上げ要求をかかげて、たたかいを担った。しかし、資本の構えは前年とはまるで違っており、日経連の指標どおりに抑えられてしまった。同時にたたかわれた自治体選においても、恐慌下で必死の保守陣営におされて、社会党は伸び悩んだ。
 職場のなかでも、抵抗闘争を担っている活動家への攻撃が強められた。その一側面として、電電公社の圧力を受けた全電通労組との論争が激化した。豊島支部電報合理化反対闘争に関する「社青同の介入」という非難に対して、職場の労働者の一員として、独占資本の攻撃とたたかい抜く社青同の姿勢を明らかにした(8・1申入れ)。以後、全電通労組との論争がつづくが、社青同はあくまでも、公社こそが敵であり、たたかいの相手であるという認識を崩していない。
 75年10月、第14回臨時大会と結成15周年記念の全国交流会、1万人集会が行われた。職場・地域で仲間たちの怒りを組織しつつ、独占資本の包囲攻撃を打破ろうと意志統一した。
 労働運動は公労協、地公労による192時間に及ぶスト権ストを打ち抜いた(75年12月)。日教組も画期的な主任制度反対ストでこれにつづいた。しかし、三木内閣の「ブルジョア民主主義の法と秩序を守れ」という基本路線にもとづき、資本の側は一歩も引かず、やらせてたたくという姿勢を貫いた。保守系住民を扇動してのストヘの非難、大量不当処分で組合組織を揺さぶり、損害賠償を突きつけ、反合理化方針の変更をせまった。スト権ストは8日間もたたかいつづけられたが要求は何も取れずに収束した。
 スト権ストの敗北後、総評を中心とする労働組合の勢いは年々、後退していった。職場は小集団運動と労使協議制を柱にした日本的経営参加の体制が民間の大企業を中心に築かれ、多くの職場で労使はパートナーとなり、合理化推進、生産性向上にすすんだ。不況・赤字攻撃、「正常化」路線で反合理化闘争は労使協議制におきかえられ、職場のたたかいは孤立させられていくのである。
 76春闘にむけて、日経連は「製造業だけで2OO万人の過剰人員」との脅しをかけながら、「雇用か賃金か」と迫ってきた。賃金は「一桁以下」のガイドラインをしめした。そういう時だけに社青同は、マルクス経済学にもとづく大幅賃上げ要求を強く打ち出した。労働者の生活実態を掘り下げてとらえるために、家計簿づけからの要求づくりを強化し、「まあまあの生活」と思っている者が、実は労働力の再生産もまともにできないように我慢させられているという事実をえぐりだした。そして、大幅賃上げが願望ではなく、譲れない切実な要求であると訴えた。しかし、76春闘は一桁台の賃上げで不十分なたたかいのまま、資本におし切られた。

(35)76年10月、第15回大会が行われた。この大会では、「重たい職場の現実」「正常化」をめぐって、討論が行われた。職場の仲間たちは、われわれの働きかけに対して、2、3年前のように敏感には、応えなくなっていた。長期の不況と資本の攻撃のなかで、右傾化の基盤がつくられはじめていたのである。社青同は、そういう情勢下であるからこそ、生活と労働の実態にくらいつき、階級対立の事実を明らかにしながら、労働組合強化の力を組織しようと討論した。その内容が基調のなかで、①生命と権利の視点の確立、②3つの先生(資本、古典、仲間)にまなぶ、③2つの目的(改良の実現、主体の強化)の再確認となった。
 77春闘にあたって、大巾賃上げの声が春闘共闘から消えていきつつあるなかで、『青年の声』では、労働者の人間らしい生活のためには譲れない要求として、大幅賃上げの声を、毎号、強く訴えた。そのなかで、階級対立の本質を、鋭くつきだしていった。
 春闘のさなかに、京成労組による、1000名首切り合理化に対するストがたたかわれた。資本の側は、赤字宣伝とならんで、京成の職場闘争を取り上げ、「住民は高い運賃で損をしている」と非難した。京成労組は真向から反論し、社青同も全力をあげてたたかいを支援した。
 7月の全電通大会では、社青同を「敵対組織」と規定した。前年から、社会党中央に申し入れを行いつつ、圧力をかけていた全電通は、なりふりかまわず、職場のたたかいを抑え、社会主義と労働運動の融合を拒否してきたのである。独占資本の意図に迎合し、労働運動右傾化の先端をいく動きであった。
 社会党、総評の指導部は、75年以降の資本の体制的危機意識にもとづく、攻撃の本質を見抜けず、容易な「国民的多数派形成」や「政権の夢」をおい求めた。当時の幹部の口から「反合理化闘争では、民主的多数派は結集できない」「大幅賃上げでは、世論を味方にできない」「反独占では幅が狭いから、反自民で民主的多数派を」と、独占資本との階級的対決をさける傾向が強まった。
 独占資本の攻撃は社会党から反独占・社会主義の牙を抜くことをめざしてきた。77年4月に江田氏の離党、そして、77年の参議院選挙を前後して、「党改革」論争が活発化した。社青同に対する批判も強まった。
 社会党、総評の当時の指導部は、反合理化闘争と科学的社会主義の学習を重視し、階級闘争路線に立った青年活動家の成長に恐怖を感じていた。それまで大いに歓迎していた青年共闘運動が一定の力をもってくると自らの地位に不安を抱くようになった。
 また、反ソ・反社会主義宣伝や科学的社会主義は自由の敵という思想攻撃のなかで、多くの中間層がマルクス・レーニン主義に恐怖を感じるようになっていった。社会党、総評内の右派は、「左派」の活動を警戒し、排除に動き出した。そのことを一気に噴出させたのが、77年の「社会主義協会規制」であった。社会党、総評の運動の前進を妨げている教条主義という攻撃を強めて、社会主義協会と社青同に非難と憎悪が集中された。
 「社会主義協会規制」は職場においては「反合理化・職場闘争規制」であり、あたり前の権利の主張、学習への呼びかけが「社会主義協会派の教条的、セクト主義的行動」とされた。
 社青同は、われわれこそが青年労働者のエネルギーを組織して、党強化に結びつけてきた事実を示しながら明確な反論を行った。しかし、それ以降、党と青年同盟との支持協力関係を断ち切ろうとする圧力が不断につづくことになった。
 こうして、「左派」の活動家を運動から排除することは、労働運動の活動力を落とすと同時に資本の職場支配体制の強化を許すことになった。
 総評は77年8月の第55回大会で「反独占」を外した「反自民統一戦線」を提唱することになる。ときあたかも、成田委員長から飛鳥田体制の下に出発した社会党は「100万党建設」「国会議員の代議員権付与」「中期経済計画」の方針を決定し、従来の路線と明らかに違った方向へと強く傾斜していくのである。
 78年夏、「反帝連帯・平和・友情」の基調にもとづいて世界青年学生平和友好祭典がキューバで開催された。この祭典は、75年のインドシナ解放をはじめ、ポルトガルからの独立をなしえたアンゴラ、モザンビーク、ギニア、ナミビア、そして、エチオピア、ジンバブエの民族民主革命をはじめ、78年のアフガン、79年のニカラグアの解放という70年代後半の反帝民族解放闘争を色濃く反映したものであった。また、ポーランドでのストライキ問題、アフガンのソ連軍の駐留に関しても社青同はプロレタリア国際主義の立場を堅持してきた。

(36)77年、三木内閣から福田内閣という反動の親玉に変わり、資本の側の結束はさらに固くなっていった。
 78年は、吹き荒れる不況がその頂点に達し、400万人首切りが宣言され、倒産と首切りの実態はすさまじく進行した。造船、繊維、鉄鋼などの民間企業や公労協、公務員の職場にも首切りの攻撃が吹き荒れた。
 78年には、全逓名古屋中郵事件に関する最高裁の反動判決が出され、これを挺に「郵便法違反」を口実とした弾正が強められ、78春闘では全逓はスト中止に追い込められる。  そして、三池闘争以来、影をひそめていた指名解雇が公然と復活し、沖電気での300名の指名解雇(78年10月)はその第一陣であった。
 このように一貫した戦略をもって、独占資本は、たたかう労働組合をつぶすことに全力を上げてきたのである。また、200カイリ問題では、反ソ・反社会主義キャンペーンを繰り広げ、階級対在を隠蔽する攻撃も強化された。
 78年9月に第16回全国大会を開催した。同年4月には社青同専従者基金制度を発足させた。大会では反合理化闘争と春闘の後退のなかで、民間の仲間の反首切り闘争にまなびながら、いかに反撃していくかを熱心に討論した。そのなかで、生活実態とマルクス経済学の立場に立つ大幅賃上げ要求討論のあり方をめぐって、論争がおこった。その前の第68回中央委員会から始まったもので、労組の現状にそぐわない大幅な要求は、かえってたたかいを弱めるのではないか、という疑問から出たものであった。中央委員会は大幅賃上げ要求の討論はすすめつつ、賃金闘争とその思想を広げていくという立場で討論を集約した。
 翌年、全逓の反マル生闘争に対する大量処分(4・28)が出されたが、これは、社青同に対する攻撃でもあると、受け止められた。なぜなら、生産性向上運動に対する職場抵抗の組織化は、生命と権利を奪うことを許さない社青同自身のたたかいでもあったからである。このあと全逓は団交重視、特昇協約と路線を変えてゆくが、全逓内の同志は階級闘争路線を確立し頑張り抜いている。
 社会党青少年局からの日朝青年連帯委の提起も、次の項にのべるように、社青同にとって重要な判断を迫るものであった。79年12月の第17回臨時大会は、日朝連帯委、党、総評と社青同の関係を中心に討論が行われた。
 80春闘は、交通ゼネストの中止をもって、事実上のストなしにおわった。そのなかでたたかわれた京成闘争は、「社青同は企業をつぶす」という攻撃に抗するたたかいをも含んでいた。社会主義と労働運動の融合に対する資本の攻撃の典型ともいえるものである。5月には、国労、動労に対して停職190人を含む3804人の処分が出された。これも階級的労働運動を圧殺しようとする、資本の意志を示すものであり、80年代の厳しい対決を予測させていた。

(37)70年代後半は青年の諸共闘においても今日に至る攻防の諸問題点が出されてきた時期であった。
 青年の諸共闘運動から社会党、総評の召還がはじまっていった。社会党を支持する青年共闘会議は、77年参院選において、総評が召還し活動しえず、77年末の社会党青少年局長の交替を期に事実上「開店休業」の状態に追いやられた。団結集会実行委員会は、76年から総評が「欠席」の状態になっていった。さらに平和友好祭実行委員会では「幅が狭い」「単産縦割参加を認めよ」という全電通などからの意見と反帝連帯・平和・友情の基調をめぐる議論が激化し、あわせて、77年、78年と「全国協」加入が総評などから主張されるようになってきた。
 79年に入り、青年の共闘運動は大きな変化のなかでの「決断」をうながされ、社青同はより強い「決意」をすることになった。
 この年、社会党を支持する青年共闘会議は総評青年局の「欠席扱い」(事実上、空席)のまま再スタートし、全国青年団結集会実行委員会も総評青年局は同様の扱いとなり社会党青少年局は後援団体という位置で再スタートした。さらに日本平和友好祭実行委員会は実行委員長に総評青年局はとどまったものの、事務局長は総評青対部が降り、単産青年部(総評青年協として)のもちまわりで努めることになった。
 この79年の「決断」は、作りあげてきた「3者共闘」の内実を確保しながらも、形態上における「変則」を事実認識しながらの「決断」と出発であった。だが、この「決断」は生き残りのための方途としての選択としてではなく、「3者共闘」の運動を守るための精一杯の努力であった。
 したがって、社青同が改めて決意することの意味が厳しくつきつけられた。つまり、単産青年部が表に出て総評青年協が分岐する(総評確認は「単産・県評青年部の自主性を認める」という内容)、あるいは各県段階における分断攻撃による差異などのもとで、貫かれるべきは「3者共闘」の運動を守るという点にあり、この点で、どのような形態が残されているかということであった。この「新たな時代の始まり」は、そうした事態を社青同として、それぞれのおかれた差異のある条件下で統一的に認識できるかという点が要であった。
 すでに78年1月の第59回中央委員会の『地方選と自治体問題についての決議』で、社公民路線下における社青同及び青年共闘の一員としての選挙闘争での立場についてふれている。そこでは、社青同が独立の組織として方針を持ち、主張することは当然の原則であるとしながら、選挙闘争に際しては社会党の最終決定、社会党の運動の一環を担っていくとしてきた。つまり労働運動や大衆運動の成長・発展の芽を与えられた条件のなかでつかみ、それに沿った活動形態を発見し全力で取り組むことによって社会党、総評の団結を強めるというものであった。そうであるが故に、社青同は独自に宣伝・扇動し、学習や討論を組織するが、可能なかぎりそれは社会党員を中心とする革新勢力、及び大衆運動の団結を守っていく立場をとるということであった。
 79年の「新たな一時期の始まり」についても、そのなかでの「総評の召還」「単産自主性への移行」を次のように考えてきた。「分岐」を「瓦解」への一歩としてではなく、総評青年運動内に否定しがたく「3者共闘」の運動実体がうちたてられていることに依拠し、大衆的運動を背景として、これを守り抜き発展させていくことであった。社会党もその事実を否定しえなかったのである。よって、「不況・赤字」攻撃と「企業主義」の台頭の下で、総じて労働運動のなかに組合主義が成長し社会党をも組合主義的政治で包含しつつあった時、79年の状況は確かに「妥協」を含む再出発ではあったが、一方で前進のための力と足場を再確認しあえたという意義をもっていたといえる。

(38)70年代後半から80年代にかけ、社会党・総評ブロックの青年運動に大きな問題を投げかけたものに社会党の「複数青年運動論」があった。77年の第41回大会で社会党系青年組織として「全国協」「青年懇」が言及され、78年の第42回大会で「複数青年運動論」として打ち出されてきた。この路線的背景をもって70年代後半の青年の共闘をめぐる攻防が激化し、79年の再出発を迎えたわけである。79年の再出発は新たな論争の出発でもあった。
 それは「日朝連帯青年委員」の結成をめぐる論争として、実体化されてきた。そこで社青同が問題にしたのは「複数青年運動論」による「全国協」「全青連」の形態上の認知問題と同時に、日朝連帯運動の内容であり、全国統一闘争としての組織化の方向についてであった。社青同は「反独占・反帝連帯」という基調の明確化や、運動の統一的提起とその集約が行われる中央、各県を含めた全国組織の結成を求めてきた。それが「複数青年運動論」による社青同及び反独占青年運動の解体の目論みを克服する道であったからである。結局、81年に社青同抜きで日朝連帯青年委員会は発足したが、社青同は党内の先輩や労組青年部の仲間たちとの精一杯の努力と、各県で作りあげてきた日朝連帯運動の実態を背景として82年に参加していった。
 70年代後半からの社会党、総評ブロックの青年の共闘運動は「単産自主性を認める」方向での対処によってしか総評の統一性を保持しえないという総評青年運動の停滞と瓦解を土台に、これに社会党が追随することで「3者共闘」運動の前進が阻まれてきたといえる。
 このように青年の共闘運動は社会党、総評労働運動の推移に規定されながら歩んできた。同時に社青同は常に大衆運動に依処し、その運動が併せもつ思想と統一闘争が求める共闘形態をもって問題に対処してきたといえる。

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第9節 生命と権利の闘いの再強化

(39)社青同は80年10月の第18回大会で生命と権利のたたかいの再強化を打ち出した。
 この提起は70年代後半の独占資本の体制的合理化と労働運動の後退を主体的に受けとめ、生命と権利のたたかいの再強化によって、階級的労働運動の再構築をはかっていく決意であった。
 この再強化の課題が具体的に提起され討論されていくのは大阪で開催した全国交流集会(81年10月)であった。全国交流集会基調には大衆闘争路線の確立とその実践にむけて、次の3つのことが提起された。①われわれの主張とたたかいは仲間の反抗と結びつきはじめているが、その一面で、敵の攻撃と労働連動の後退のなかで生み出される「お前たちの言うことはわかるが、俺にはできない」との反論に代表されるように、不満と怒りがしっかりと組織されずにアキラメとなっている現状がつくられており、ここを克服するには何が求められているか。②その克服の方向として、仲間に対して、あいつはだめだと切りはなしたり、あきらめたりするのではなく一人ひとりの置かれている条件をつかみ、窮乏化している実態を取り上げて、これをどう見るのか、これでいいのか、どうするのかという大衆的討論を仲間と共に積み上げる大衆行動が必要であり、この積み上げのなかから、当局(資本)は労働者を人間らしく扱っていないという共通の怒りに高めていくこと。仲間とどうたたかうか(思想)は違っていても、生活苦、労働苦、健康で働きつづけ生きつづけたいことは一致しており、違っていることは当局(資本)にすがって解決しようとするのか、それとも組合に結集し、仲間との団結の力で解決するのかであり、ここを一致させるためには、不平・不満の共通認識をつくり、そこからやれる小さな抵抗を積み上げていく活動こそが求められている。思想統一の前に、仲間との共通課題を取り上げて一致させていく積み上げ活動、大衆行動を通して思想統一をはかっていくことを重視すること。③この活動を展開していける同盟員の主体性を確かしていくために、3つの先生にまなぶ(資本、古典、仲間)班活動が必要であるとされた。
 全国交流集会では、体制的合理化が強化されるなかで生命と権利が奪われつづけ、仲間の不平、不満は強まっており、その仲間の不平や不満にしっかり結びつきながら、生命と権利のたたかいを再強化していくことを意志統一しあった。
 この意志統一は、ときあたかも第2臨調・「行革」が「戦後政治の総決算」攻撃として国鉄労働者をはじめとする全労働者にかけられようとする時期でもあった。生命と権利のだたかいの再強化とそのたたかいをすすめる社青同の主体的課題が、体制的合理化として本格的に強まろうとしていた第2臨調・「行革」攻撃という客観的情勢を受けとめて、これと正面からたたかう労働者階級の主体性の強化として決意されたのである。
 民間職場で苦闘を強いられながら、10数年間、たたかい続けてきた同志相互の交流を目的とする民間班協交流会、争議団交流会が79年から開始された。
 また、資本の体制的合理化は、労働者の生命と権利、健康を奪うものであり、頚腕をはじめとする職業病は資本主義的合理化病だとして、罹病者を守り、資本に対する責任追求のたたかいを強化していくための「全国職業病・罹病者交流会」が80年から開始され、それは労災・職業病対策委員会として強化されることになった。

(40)80年代に入って、独占資本の攻撃は、「官公部門の効率化」(80年12月発行の労働問題研究委員会報告)を打ち出した。
 具体的には、81年3月に臨時行政調査会(第2臨調)を発足させ、赤字国債の乱発による国家財政の危機を「増税なき財政再建」と称して、国民世論を操作しながら3公社の改革、特に国鉄改革をその目玉として「行革」攻撃がはじまった。
 資本主義の矛盾を労働者、勤労諸階層全体への犠牲へと転化するこの攻撃は、体制的合理化を柱に、福祉切捨て、軍拡路線など支配階級の全面的な攻撃であったが、特に総評労働運動の機関車である国鉄労働者ヘと集中された。
 82年1月、自民党は三塚委員会を発足させ、ヤミ・カラ、現場協議制の批判キャンペーンなどをマスコミを総動員して行い、「国鉄赤字の責任は国労の職場闘争にある」との世論工作を強めてきた。その世論工作に一定、成功したと判断した第2臨調第4部会は、同年5月に、職場規律の確立や新採停止を柱とする「緊急11項目」を発表した。自民党政府は、これを「国鉄再建緊急10項目」として、同年、9月に閣議決定し、これを挺にして、「経営形態移行」(分割・民営)までの5年間、国鉄労働者への徹底した合理化と組織破壊攻撃のかぎりをつくしてきた。
 「行革」攻撃と同時に、総評労働運動と社会党解体攻撃が準備された。
 日経連は労働問題研究委員会報告(80年12月発行)で、日本の民間大手組合の労使関係は「日本の宝である」と賞賛した。7O年代後半の不況期のなかで、民間大手の労働組合を掌中にした勝利宣言である。その民間大手組合を中心にして、80年9月に「労働戦線統一推進会」(鉄鋼、全日通、全繊、電力、電機、自動車の各単産が代表)が、労働4団体公認で発足した。「労働戦線統一推進会」は、81年6月に労資協調路線を基調とした「基本構想」を発表した。その内容をめぐって、総評内で激しい論争となり、総評拡評は「5項目補強見解」を決定し、対応することになったが、12月に「労働戦線統一推進会」は「統一準備会」(39単産、約380万人)へと発展し、82年12月には全民労協第1回総会(発足)が行われた。85年11月の第4回総会では、87年に「連合体移行」を決定した。同盟・JCからの「労戦統一」攻撃におしまくられ、これにすり寄っていく総評指導部によって、総評は解体の危機を深めていくことになる。
 総評の解体の危機に対して、国労や日教組を中心とする「左派」単産の奮闘とあわせて、総評顧問(大田、岩井、市川)の3氏が代表委員となって結成された「労働運動研究センター」(82年12月結成)は、総評労働運動の強化をめざして活動を開始した。
 総評労働運動の後退は、社会党へも強く影響した。社会党は第44回大会(80年2月)で「社公連合政権構想の合意」を決定した。同年12月の第45回大会では「理論センター中間報告」として、「80年代の内外情勢の展望と社会党の路線」が提案され、社会党の綱領的文書とされてきた「日本における社会主義への道」を見直す「『綱領』と『道』の調整」作業がすすめられていくことになる。つづいて、第46回大会(82年11月)では「新しい社会の創造-われわれのめざす社会主義の構想」が決定された。

(41)こうした労働運動、社会党の後退はどのように準備されてきたのであろうか。
 それは、1970年代前半の「石油危機」を背景としてすすめられてきた独占資本の「不況・赤字」を挺とした思想攻撃への全面的屈服であった。「会社が赤字だから、賃上げはがまんしよう」「雇用のためには合理化に協力しよう」という民間大企業労働組合と官公労一部労働組合の労資協調路線の台頭である。この路線で日本労働運動を再編成し、日本社会党を「国民政党」へ変質・転換させようという攻撃であった。同盟やJCなどの組合は、第2臨調「行革」攻撃に対して「行政の諸制度全般にわたって大胆な改革案を示しており、われわれのこれまでの主張に沿ったものであり評価できる」として、賛成の態度を表明した。
 総評も、第2臨調・「行革」攻撃に対して、資本主義社会のなかで支配者側が「国民のための行革」を実行するはずがないのに「国民的立場からの行政改革」として、階級対立をあいまいにし、これと正面からたたかうことを避けた。社会党も「国民のための行財政改革をめざして、平和、福祉、分権の行財政システムの確立」「民主化、分権化、公平、効率化など本来の行政の改革に取り組むよう強く要望する」との、改革案、見解を発表した。これは結果的に、労働組合自らが、合理化案を提案するという矛盾を含んだものである。その弱点は国鉄の「分割・民営化」のたたかいに現われた。総評、社会党は「分割には反対するが、経営効率をたかめるために可能な限りの民営的手法をとり入れる」として、民営化には実質的に賛成の態度をとり「分割・民営化」反対の大衆運動を放棄した。こうした総評、社会党の後退が、国鉄労働者の20万人にも及ぶ首切りを許し、国労の分裂を加速させたのである。84年4月には、電電、専売が民営化された。
 反合理化闘争路線の動揺は、総評に結集する官・民を間わず全ての単産に表面化した。全逓では第35回大会(81年7月)で「10・28確認」(「労使が事業という共通認識をもつこと」)を確認し、これまでの企一、企二の長期抵抗大衆路線を基調とする反合理化闘争路線を転換し、事業防衛にたった団交重視、制度政策闘争に大きく踏み出す方針を決定し、急速に右傾化の道をたどることになった。
 さらに、戦後日本労働運動のなかで、最大の労働者の統一闘争として発展してきた春闘は80年代に入って、解体の道をたどっていくわけであるが、その最大の要因は、賃金闘争の考え方の後退であった。独占資本の「不況・赤字」攻撃や「支払い能力論」「生産性基準原理」に反論できずに、経済成長の度合い(生産性の伸び)から要求を考えたり、賃上げが物価上昇をもたらさない範囲で要求を考える「経済整合性」論や、経済成長をはかるために賃上げ要求を考える「内需拡大春闘」に転換してきたことにあることは明らかである。
 この考え方はそもそも同盟(第2組合)の路線であり、82年に全民労協が結成され、83春闘から総評にかわって、全民労協が春闘の主導権をにぎることになってから、要求の自粛、話合いストなし春闘が定着させられてきたということができる。
 総評労働運動、社会党の後退は、独占資本の後押しによって育成されてきた民間大企業労働組合と一部官公労働組合の労資協調路線を唱える労働組合の台頭ということができるが、より基本的には、総評が結成直後に確立した「生産性向上運動反対」や「賃金綱領」「賃金行動綱領」、さらに「平和4原則」の基調にもとづく反合理化闘争、大幅賃上げ闘争、平和と民主主義闘争をはじめとする大衆運動で発揮した戦闘性、階級性の喪失ということであった。

(42)生命と権利のたたかいの再強化を打ち出して、2年間のたたかいは、第2臨調・「行革」攻撃、とりわけ 国労への攻撃が本格化し、反合理化闘争路線の転換、大幅賃上げ闘争の後退が全ての単産、職場で生まれるなかで、社青同のたたかいも困難さが増大した。しかし、社青同は、社会の主人公である労働者が、健康で働きつづけ生きつづける権利があり、これを保障するのは資本、社会の義務であるとの労働者思想を堅持し、合理化絶対反対、大幅賃上げ闘争を職場から、仲間と共につくり出す努力を強化した。
 82年から開始した「生活・職場実態点検手帳」づけ運動は、後退させられてきた春闘を労働者一人ひとりの生活・職場実態を点検し、その実態を「人間としてこれでいいのか」の討論とマルクス経済学(賃金論)の学習を結合するなかから、譲れない大幅賃上げ要求と職場労働条件改善要求を掲げ、資本へつきつけていく職場からの春闘再構築のたたかいであった。「手帳」は全国で7O万部以上、発行され、82年9月の政府閣僚会議での33年ぶりの「人勧凍結」の暴挙に対して、自治労青年部は、その実損額を「手帳」づけのなかで運動化するなど、生活実態からの大幅賃上げのたたかいは、青年の統一闘争としての発展をみせた。
 また、社青同は、82年のヤミ・カラ攻撃以降、機関紙『青年の声』で国鉄労働者の実態を取り上げ、国鉄労働者のたたかいを激励しつづけ、自らも職場での反合理化闘争をつくり出すたたかいを強化した。
 社青同第19回大会(82年10月)は、生命と権利のたたかいの再強化を打ち出してから、2年間の総括を行ったが、大会は「仲間がいないとたたかいつづけられなかった」「支えてくれる仲間が、組織(班)があったからたたかいつづけてこれた」といわれたように、仲間に学ぶ実践、仲間と共にかたかっていく大切さが強調された。
 社会党第48回大会(83年9月)では飛鳥田委員長が辞任し、石橋委員長が選出された。石橋委員長は「ニュー社会党」を看板にして、「自衛隊の違憲・合法論」(84年2月、第48回続開大会)、「原発容認」(85年1月、第49回大会)という現実路線を打ち出したが、大会の論争で一定程度、党の基本政策が守られた。しかし、第49回大会では『道』と『綱領』の処理方針として、「新宣言」(「綱領)を次期大会で決定し、『道』を歴史的文書にするとされた。
 このように、独占資本は、第2臨調・「行革」攻撃をつうじて、とりわけ国労にその攻撃を集中し、国労の反合理化職場闘争路線を転換させることによって、総評労働運動の中核としてたたかいつづけてきた国労を弱体化し、総評と社会党の解体を狙ってきたのである。
 社青同第20回大会(84年10月)ではいよいよ本格化した国鉄闘争を軸に反「行革」統一闘争を構築していくことが大会の課題とされた。
 国鉄闘争を軸に反首切り、反「行革」闘争を精一杯、たたかい抜いてきたプリマ、鹿児島交通、全電通、国鉄をはじめとする全国の仲間が共通してのべたことは、
①資本への怒りを実態から自分自身のものにすること。②労働者が合理化のなかでどのように扱われているか、何で怒っているのかをつかみ、仲間との共通認識にしていくこと。③一人の労働者の問題を取り上げ、労働運動全体に広げ、資本につきつけていく大衆行動を強化すること。④一人ひとりの同盟員がたたかいつづけることを保障していく班活動を作り出すことであった。この班活動の課題については、社青同結成25周年(85年10月)運動のなかで開催された全国交流集会でまなびあわれた。
 さらに、これまで積み上げられてきた「学習と交流」を基調とする青年共闘運動は、国鉄闘争のなかでもその力を発揮した。国鉄労働者への支援激励行動、職場交流をつうじて、国鉄労働者の実態は、自分の問題であり、自分の単産の課題でもあるという自覚を広げた。総評、社会党が、国鉄の「分割・民営化」反対闘争を実質上、放棄したなかでも、全国で国鉄労働者と共に「分割・民営化」反対の共闘組織が結成され、その運動が追求された。大量首切りと無権利状態、命令と服従の支配体制が確立されたなかでの国鉄労働者のたたかいは、毎日毎日が不安と動揺の連続であり、何よりも労働者全体の支援、連帯活動がなければたたかいつづけられなかっただけに、総評、社会党中央の態度は、厳しく糾弾されなければならなった。
 85年には1963年の三井資本の合理化、保安無視によって引き起こされた三池三川坑大災害でつくらたCO患者の保障と責任追及を求め、たたかいつづけてきた三池労組が、財政やたたかいの展望を理由にして、和解を打ち出し、原告団は分裂した。そのなかで32人の原告団(冲団長)は、三井資本の責任追及を求め、たたかいつづける決意をした。資本の攻撃は、三池労組をも巻き込んで労災・職業病闘争の圧殺をはかってきたのである。社青同は、冲原告団との交流を広げ、CO闘争の責任追及のたたかいにまなんでいった。

(43)79年の諸青年共闘の「再開」以降も、青年の共闘運動を破壊する動きは強まらざるをえなかった。右翼的労働戦線の統一や全民労協発足の歩みと同じくした一つの大きな流れが根底にあった。いくつかの単産青年部は諸共闘へのかかわりが困難になり始めてくる。
 社会党は80年の第44回大会方針で「階級的青年運動を青年同盟をつうじて組織する」ことを削除した。それは、これまでの『目本における社会主義への道』にもとづく反独占の階級的青年運動の育成強化の方針をとらないということであった。82年の第46回党大会には「『支持団体のあり方検討委員会』報告」を出し、党内の青対方針[を]めぐる論争を「党の上に青年同盟をおく」「青年同盟の意志を党にもちこもうとしている」との批判にすりかえた。形式的には青年政治同盟と党との関係は否定しないが、複数青年組織の是認を迫るものであった。
 具体的には、日朝連帯運動で反独占・反帝連帯の基調をアイマイにしたり、各県の連帯運動との統一闘争を切り離すこととなって現われた。また、83年参院選の選挙闘争でも「社会党系の全ての青年の結集」を名目にした「青年選挙対策委員会」を認めなければ青年共闘も認めないということとなって現われた。
 社会党の「複数青年運動」が真に青年運動を作ろうとするものでないことは、日朝連帯運動が82年11月の「国際会議」以降、閉店状態になっていることを見ても明らかである。「複数青年運動」の狙いは、各県などの局地的部分的なものとしては容認しつつも社会党・総評ブロックの青年運動が、科学的社会主義の思想で全体的統一的になることを否定することにあった。このことは、県段階でも、県総評青半協が抜けたり、あるいは親が直接青年協を凍結するなどの3者共闘運動の破壊となって現われた。
 こうした階級的青年運動を否定する動きに対して、その一つひとつに見解を持ち、全国的な運動に依拠しながら、その力で青年の共闘運動を守る努力を強化した。
 日朝連帯運動も全国的な運動を背景にして84年に全国交流会を持たせた。
 しかし、その後の中央における閉店状態を克服しえていない。また82年の第46回党大会では9県本部代議員による「社青同中軸」「青少年局運営の民主化」を求める修正案が出され、今日も係争中となっている。
 こうして一つひとつの攻防がつづいてきたが、実態としてはより一歩踏みこまれている。「複数青年組織の認知」を社青同にせまり、それを拒否したからと「援助金」のストップをしたり、また直接的な青年共闘運動の破壊(86年参院選)も行われた。中央青年共闘として全国の青年の統一闘争の武器たる『青年共闘パンフ』の発行が否定されたりもした。
 社青同は、80年以降、青年の共闘運動の中心を、「行革」合理化がもたらす首切り・賃上げ攻撃に対決して、国鉄闘争を軸として反「行革」統一闘争を作り出すことに全力を上げてきた。とりわけ敵の集中攻撃は国鉄職場にかけられているなかで、国鉄の青年労働者への激励、職場訪問、学習と交流などを全国で無数に組織した。当初は「国鉄の職場はひどい」という感想も多かったが、国鉄職場への攻撃は自分の職場の「行革」合理化と同じことであることが、学習と交流の継続のなかで共通の自覚として少しずつ広まっていった。この「行革」攻撃のなかで、学習と交流を通して地区労青婦協の再建・結成や、単組青年部の強化をも作り出していく成果もかちとってきた。また、団結集会も地区をはじめ、全国で生活・労働の実態をみなおし、要求の根拠を明確にするための「生活・職場実態点検手帳」づけの取り組みを行った。全体として資本家の主張におされ、要求さえも出せなくなるなかで、労働者の立場を明確にすることは重要であり、青年のアキラメの克服とたたかう決意に果たした役割は大きかった。
 社青同の国際活動も83年10月、日ソ勤労青年交流集会(65名が訪ソ)や85年夏の世界青年学生平和友好祭典(モスクワ)に参加するなど強化された。このなかで社青同は、帝国主義下における自らのたたかいを自覚し、プロレタリア国際主義の立場はどうあるべきかをまなんできた。80年の南朝鮮での光州事件以降、4・19~5・18を日朝連帯月間として提唱し、活動を強めてきたことに加え、アフガン、ニカラグアなどへの連帯支援運動を取り組んできた。

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第10節 80年代後半の闘い

(44)中曽根内閣は、85年の内政の課題として、教育臨調、地方「行革」、国鉄改革の推進を表明した。自治省は1月に「地方行革大綱の策定」についての通達を各自治体へ出し、85年を「地方行革元年」にする意気込みを示した。6月に臨時教育審議会は「教育改革に関する第1次答申」を発表する。7月に行革審は「行政改革の推進方策に関する答申」を発表し、内閣の総合調整機能の強化、規制緩和、国有地の活用をはじめとする「行革」の全面的展開を表明する。また、同月、国鉄再建監理委員会は「国鉄改革に閣する意見」のなかで、「分割・民営化」をはじめとする12万4千人の首切りを発表する。12月には、国鉄当局は国労をはじめとする組合に「労使共同宣言」を強制するが、国労はこれを拒否した。「分割・民営化」を1年余り後に控えた国鉄当局は、国労への攻撃を集中し、「雇用不安」を利用しながら、分断・分裂工作を強めてきた。動労の国鉄当局への屈服をはじめ、国労からの分裂組織が結成されていった。
 86年7月には、動労が総評を脱退した。合化労連では、春闘、反合理化闘争をたたかうことを求める組合と全民労協を支持する合化本部との対立がつづき、臨時大会で(12月)35組合(約2万万千人)の除名が決定された。
 独占資本は労資協調を唱える全民労協を歓迎するかたわら、一方で国労をはじめ反合理化闘争を基軸にして、たたかう労働組合と労働者の排除攻撃は織烈さを増し、労働運動内部では、全民労協の路線をめぐって総評を2分する意見の対立となった。
 86年10月9日、国労は第50回臨時大会(修善寺)を開催した。大会は執行部が提案した「労使共同宣言」を否決し、たたかう路線と組織を守った。その後、国労旧主流派は、国労から脱退して、「鉄産総連」を旗上げした。総評、社会党指導部は、国労旧主流派との結びつきを強め、国労への冷たい態度をとりつづけた。87年4月1日の「分割・民営」後の新会社の採用、清算事業団への配属の実態は、国労への不当差別、不利益扱いであることを衆知のものとした。

(45)社会党は『日本における社会主義への道』に変わる「新宣言」を86年1月の第50回続開大会で決定した。「新宣言」という改良主義路線は、大量首切りと政治反動の吹き荒れる客観的条件から大きく離れたものであった。その結果は86年7月に行われた衆・参同時選挙に現われた。自民党は250議席から304議席へ躍進、社会党は110議席から86議席へ後退という衆議院の結果であり、中曽根内閣に「55年体制の崩壊から86年体制」と言わせしめた。
 総評は87年の第77回大会で「1990年に全的統一を達成して総評を解体する」ことを決定した。全民労連が11月20日に結成されるに伴って、同盟、中立労連は解散を決定した。これによって、国民春闘共闘会議は解散されるなど総評労働運動の軸足は全民労連へ移行されることになった。
 社会党も全民労連の発足を前にして「自前の党づくり」として、安保や自衛隊をはじめとする党の基本政策の見直し、「新言言」に基づく「組織改革」(案)が提案され、社・民の歴史的和解が叫ばれるようになった。そうしたなかで「新宣言」に反対した党県本部代議員を中心に党の基本政策の変更を許さないことを基本活動とする党員活動家による「党建設研究会全国連絡協議会」が発足した(87年6月)。
 国労は87年9月に第50回大会から試練の1年を経過し、「分割・民営」後の5ヵ月余のたたかいを総括する第51回大会を開いた。大会では国労の反合理化闘争路線を堅持し、総評解体反対、たたかう労働戦線の統一をめざして他の単産との共闘を強化し、その先頭に立ってたたかいつづけることを宣言した。
 国労、全港湾などの呼びかけによって、総評解体反対の単産の結集が民間中小労組や日教組内の奮闘などと連動しながら、全国的な動きとなりはじめた。
 社青同もこれを支持し、青年運動のたたかいと総括から反合理化闘争を自らの職場から再構築していくことを重視しながら、全民労連に反対し、総評労働運動解体反対の取り組みを強化した。

(46)社青同は、国鉄闘争が正念場を迎えた86年10月に 第21回大会を開催した。10月9日の大会開会の委員長挨拶で国労修善寺大会で「労使共同宣言」を否決したことが報告され、会場は万雷の拍手でこれに答えた。資本の集中的な攻撃のなかで、たたかわれてきた国鉄闘争は、総評や社会党の弱さを明らかにしたが、同時にたたかう国労への大きな期待が広く存在していることも示した。
 とりわけ、熾烈な体制的合理化が全産業、全職場で吹き荒れるなかで「国鉄闘争は自分の問題だ」という企業を越えた労働者の連帯意識を育て、反合理化、反「行革」統一闘争が全国で組織された。敵の攻撃で国労組織は減少させられたが、たたかう路線と組織が残った意義は大きい。
 大会では労働者が人間らしく健康で働きつづけ生きつづけていくためには、資本とたたかいつづけるしかないこと、当局にすり寄っても、生活と権利は守られないこと、そして資本とたたかいつづけていくためにはもう1人の仲間、家族を含めた団結がないとたたかいつづけられないことが、統一的に強調された。これが国鉄闘争を軸に反「行革」統一闘争を全国から追求してきた同志たちの結論であった。資本への責任追及のたたかいを強めるために、仲間と結びつき、仲間と共に反合理化闘争を労働組合の機関としてたたかっていく努力を強化していくことを意志統一しあった。
 そのためにも、自分自身の怒りをはっきりさせ、仲間と結びついていける同盟員の主体性が強く要請されていることも明らかとなった。そのことを大会議案の基調では次のように提起された。「資本、仲間、古典の3つの先生に統一的にまなぶことが必要である。労働者の権利意識を確立し、もう1人の仲間をつくりつづけたたかいつづけていく同盟員と仲間の成長をかちとっていくためには、どの1つが欠けてもだめである。3つの先生に統一的にまなんでいく相互討論、相互批判を組織的に展開していく班活動を確立しよう」と。奪われる生命と権利の実態を取り上げ、反合理化闘争として組織していくためには、資本への怒りはどうか、仲間のことがつかまれているか、たたかいの展望(法則への確信)がどうかという3つの先生に統一的にまなんでいくことがないとたたかいは組織できにくいし、たたかいつづけていけないということであった。
 87年10月にロシア革命7O周年を記念して開催された全国交流集会では全ての職場に「仕事優先」が強制され、そのもとで現職死亡や自殺、健康破壊など、生命と権利が奪われつづけていることが共通して報告された。そのなかでたたかいをつくりだしていくには再度、働かされ様や扱われ方にこだわり、労働者は労働力を売っても、生命と権利、健康までは売っていないとの労働者の物の見方、考え方をはっきりさせ、仲間との共通認識をつくり上げなから、資本への責任追及のたたかいを強化していくことの大切さをまなびあった。人間らしく健康で働きつづけ生きつづけるために、班と職場の往復運動を積み上げながら、具体的に反合理化闘争を組織していく社青同の主体性の強化を意志統一した。
 国際活動では87年8月にロシア革命70周年記念訪ソ団(107名)を派遣し、その後の国際友好文化センター結成(88年6月)の基礎を築いた。

(47)86年に人って、失業者は3%を越えた。円高不良のもとで、産業構造の再編成という国家ぐるみでおしすすめる体制的合理化は大量首切り(失業)と低賃金労働を労働者階級におしつける。国内での産業構造の再編合理化にとどまらずに、海外への資本輸出を行い、国内外の労働者階級からの搾取を強めてきた。8時間労働制の崩壊や労働時間の弾力的運用による長時間労働の強制を合法化する労働基準法改悪が40年ぶりに強行された。そのもとで労働者の生命と権利が奪われ、人間として健康で働きつづける条件が増々困難となっている。労働者階級の反抗の増大は必然である。
 独占資本は体制的合理化を労働者階級の抵抗を抑えて遂行するためにこそ、この10数年間、周到な準備と組織づくりによって、労資協調路線の全民労連を育成し、援助してきたのである。
 しかし、資本主義の根本的矛盾である「失業の不可避性」は労資協調そのものの基盤を崩さざるをえない。現に87春闘全体としては、ストなし低額回答におさえこまれたが、私鉄一畑やプリマをはじめ中小民間の職場では、第2組合を含めてストライキに立ち上がらざるをえなくなっている。また、国鉄の清算事業団のなかて、反首切り闘争に立ち上がっている国労の仲間は不安と動揺を学習と交流、家族ぐるみをつうじて克服し、たたかいつづけている。国鉄闘争を軸とする反首切り反「行革」統一闘争も全国で組織されている。われわれは、資本主義社会の「失業の不可避性」という客観的条件と、そのもとで労働者階級は資本とたたかわないかぎり、人間らしく生きていけないという自覚が労働者のなかに広がらざるをえないという科学的社会主義の路線に確信をもたなければならない、そのことを見定めて、組合員大衆が苦しんでいる首切り、出向、配転、賃下げ、労働強化、諸権利の破壊など、奪われる生命と権利の問題を具体的に取り上げ、反合理化闘争として組織していくことが強く求められている。このたたかいを通して、階級対立を自覚し、社会主義社会を実現するしかないという階級的意識をもった青年労働者を大量に育成していくことが社青同の任務である。
 総評解体の危機が深まるなかで、労働者の組織がどうなるのかという不安、動揺も深まってくる情勢ではあるが、今日の運動の後退が、労働者階級の焦眉の課題である首切りや賃下げ、奪われる生命と権利の問題を反合理化闘争として組織できなくなってきたところにあるとすれば、ここでの運動の再構築をおいて、有効な反撃はないはずである。
 社青同は、あくまでも科学的社会主義の学習と反合理化闘争を土台に、資本主義社会への根本的批判の思想をもって、右傾化と断固としてたたかい、全民労連に反対し、反独占政治的統一戦線の中心的勢力である総評労働運動の階級的強化をおしすすめることを意志統一し奮闘した。

(48)社会党は88年1月の第53回大会で「新宣言」にもとづく「組織改革」(協力党員制度の導入と民主集中性の放棄を内容とする)を決定した。安保、自衛隊、原発、「韓」国問題などの基本政策の変更を狙った攻撃も執拗に繰り返されてきた。
 総評は、同年3月の拡大評議会に、前年の第77回大会で決定していた「90年秋の総評解体」を1年早めて、「89年全的統一して、総評解体」を提案した。
 全民労連を主導とする労働運動の右翼的再編成によって、いよいよ総評が解体されることが必至となった。国労、全港湾、新聞労連をはじめとする全民労連に参加していない民間単産は総評が実質上、春闘を放棄したなかで「88春闘懇談会」(30単産25万人)を発足させ春闘の発展・継承をめざした。また、労研センターは、総評解体を想定して全民労連に反対する全ての労働者、労働組合の結集をめざす連絡・共闘組織として「全国労働組合連絡協議会」を提唱した(88年6月)。
 また、総評解体の流れのなかで、これまで総評・社会党ブロックのなかで発展してきた反独占青年運動も、大きな影響を受けざるをえなくなった。その具体的現われとして、88年の第21回全国青年団結集会の開催要綱(講師)に対して、総評から見解が出され、実行団体(単産青年部)の不一致が生まれた。これは団結集会だけの問題にとどまらずに、他の青年共闘にも波及する。これまでの形態での青年共闘の維持が全民労連の発足と総評の解体によって、困難になってきたのである。全民労連は青年組織委員会を発足させて、青年部活動に着手しはじめた。そうした状況を受けて、反独占青年運動の路線と組織をどのように維持し、前進させていくかが問われた。
 右傾化が資本との闘争の解体(資本への協力)をつくり出しているなかで、青年運動を強化していくには、青年の実態からの論争とたたかいを職場、地域から強化しなければならなかった。全民労連の青年活動方針には、反独占の具体的たたかいと運動をもって対決していくしかない。同盟のようにボランティア運動と富士政治大学の取り組みなど、青年運動といえないような状況があるなかで、「行革」合理化による首切り、賃下げ、労災・職業病など青年労働者の切実な闘争課題を取り上げ企業を越えた交流を組織し、これを大幅賃上げ、反合理化統一闘争にしていくことをめざした。
 青年の共闘運動は春闘や反首切り、反合理化闘争を中心とする闘争課題による企業を越えた青年の統一闘争にとどまらずに、そのたたかいをつうじて、資本主義社会を打倒し、社会主義社会をめざしてたたかう青年の階級的自覚と団結を構築していくことにあった。77年以降の青年の共闘運動の破壊攻撃の狙いも、この闘争路線と組織を解体することにあった。社青同はそうした認識の上にたって、運動の基調を大事にしながら大衆運動を背景にしてその運動と組織を守ってきた。そのたびに鍛えられ成長してきた。
 その論争は資本の「不況・赤字」攻撃、「行革」攻撃で、企業主義に立つ合理化協力路線が総評労働運動に浸透してくるなかで、これまで通りの主張と運動をつづけようとする運動とのぶつかりであった。「生産に協力し企業再建することが雇用を守る」という「雇用確保」路線と青年の共闘運動はぶつかった。共闘の問題でありながら反合理化闘争そのものが、議論となった。
 反合理化闘争による労働者の階級的統一と、社会主義をめざしてまなびたたかう青年同盟としての闘争路線が問われたのである。
 この青年の共闘をめぐる論争は、たんに社青同の路線・主張だけの問題ではない。各職場の労働者一人ひとりと労働組合の態度が問われているのであり、資本の攻撃にたたかって生命と権利を守るのか、すりよって守るのかの厳しい討論である。労働組合とは何か、何のために誰と共闘するのかなど、組合民主主義に立った大衆的討論が求められた。厳しくともその論争はさけられない。
 それはとくに国鉄闘争への連帯で鋭く問われた。社会党・総評が、たたかう国労への支援・連帯を明らかにせず、むしろ「雇用確保」路線でおさえこもうとする動きが強まった。そういう妨害をはねのけて、社青同は国鉄闘争の強化に全力を上げ支援連帯活動を全国で組織した。団結集会運動は42都道府県・300地区で組織され、その参加者は6~7割が同盟員以外の青年である。
 そして、反合理化闘争と同時に、政治闘争でも積極的に闘争をもちこみ=共闘の内実を、作る努力を始めた。82年広島から始まった反核平和の火リレーは88年平和友好祭(日本実行委員会)のなかで34県に広がり3万人の青年が行動に参加するようになった。平和友好祭でのアンケート活動、あるいは青年部としての三宅島訪問、また反基地・反自衛隊闘争の継続的取り組みが開始され強化された。
 社会党・総評ブロックの解体がすすめられるなかで、これまで通りの路線を守り、運動を作り、たたかいを呼びかけ、仲間を組織しつづけている意義は大きい。そこには科学的社会主義の学習を土台に育成された労組幹部・活動家が多数配置され、日常的な5人組活動、家族ぐるみ、学習会、職場反合理化闘争など三池の長期抵抗統一路線に立った20年余りの運動の積み上げがある。この実践にまなぶことである。攻撃の厳しさだけで総評労働運動が解体したのではない。大衆闘争路線の実践の不十分さが今日の事態を招いたのである。労働運動と社会党の強化の展望は、自分の職場から科学的社会主義の学習と職場闘争を粘り強く積み上げながら、もう1人の仲間作りをすすめ、春闘や反合理化闘争を再構築していくことである。そのことを抜きに新しいことを考えたり幹部批判だけでは一歩も進まない。
 一人ひとりの労働者、労働組合、社会党に問いかけて、労働者の切実な闘争課題を反独占大衆運動として組織し、全体のものにすることを通して、反独占青年運動の解体を阻止することに全力を上げる時である。この先、青年の共闘の形態がどうなるかは分らない。右傾化した労組のなかで青年部組織すらない例が多い。
 しかし、奪われる生活、権利の実態が広がっているなかで、広範な青年がたたかうことを求めている。科学的社会主義の学習と反合理化職場闘争を粘り強く組織し、労組青年部運動の再構築をめざしながら、反独占のたたかいを呼びかけていけばいつの時代も青年は無限の力を発揮する。「この階級へのそれとともにまた政党へのプロレタリアの組織化は、労働者自身の間の競争によってたえず繰り返しうちくだかれる。だが、それはいつも、一層強力な、一層強固な、一層有力なものとなって復活する」(共産党宣言)
 総評解体という事態を受けて、われわれが意思統一すべきことは、社会主義革命にむけた強固な主体性を不断の学習と大衆闘争をつうじて再構築していくことである。

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